時間という資産

コロナウイルスの影響で、自宅にいる時間が、明らかに増えた。というか、ほぼ自宅にいることになった。

どんな時間が増えたか。

歯をフロスする時間(歯磨きはしても、フロスはサボりがち)、お風呂に入る時間(息子と一緒に)、こどもといる時間、筋トレする時間、洗い物をする時間、読書する時間、掃除する時間(ルンバだけではなく、掃除機をかけることも)、音楽を聞く時間。

新たなサービスや、世の中の流れについて知る時間。そして、それを自分自身で咀嚼して、こうしてブログに書く時間。

具体的には、ウーバーイーツ、ボイシー、オーディオブック、株式・投資信託の見直し、Apple Watchを活用しての、アクティビティの管理、睡眠の管理、音声入力のシステム導入、等。

今までの毎日だと見過ごされていた、かつ見過ごしていてもさして大きな問題にならなかったような事柄について、考える時間が増えた。

毎朝、散歩するのが日課になったのだが、そこで、歩きながら、オーディオブックを流して、飽きたら、ボイシーで情報をインプットする。

家に帰ってきたら、子どもと遊んで筋トレして、お昼過ぎにはお風呂に入ったり。

想像していた以上に、この日々を楽しめている。

なぜか。一つは、時間という資産が増えたから。

そして、新たな知識や情報にアプローチして、日々の変化を楽しめているから。だと思う。

通勤電車に揺られていた日々で、今と同様のことができたかと言うと、できなくはない。が、やっぱりそんな余裕はない。1日24時間では足りない、という感じだ。

つまり、余裕が大切なんだと。余裕があれば、余白ができる。余白があれば、人は何かで埋めたがる。

自分も同じ。ただ、その余白をどういう内容で埋めていくかに、その人の姿が出てくる。自分は、何に価値を感じて、何を大切にして生きていくのか。

自分はどういう人間なのかを見つめて、知って、自分のアイデンティティを築いていく。ちょっと大げさに言うと、こういうことなんだと思う。

そういう余白で何をするか。そこに選択肢を多く持てる人が、強い。

強いというか、変化の時代に対応できていくのだろうな、と思う。

強いとは別に、その余白に何をしたいと、自分が思うか。つまり、自分の中で沸き起こってくる情熱の対象は何か。それがパチンコだ、という人も、もちろんいるだろう。ニュースでは、県を超えて、パチンコ店に通う人をとても着目している気がする。別に、その人それぞれの意思決定なのだから、、と個人的には感じるが。

ちょっと話がそれてしまいましたが、つまり、自分は何が好きなのか。そしてなぜそれが好きなのか、みたいなところが、言語化できていると、自分を知る一歩につながると思う。

本当に麻雀が好きな人なら、(ギャンブルの例えばかりで恐縮だが)、一人でも雀荘に行って、麻雀したりするだろう。コロナ環境下は一旦無視して。ただ、麻雀を通じてのコミュニケーションが好きな人や、その卓を囲む人たちが好きな人は、一人では雀荘には行かないかもしれない。ということ。

つまり、誰に何を言われようが、自分が好きなものは好きだと、突き進むことも大切なのではないか、と思う。あとは、その好きなものという選択肢をいかに増やしていけるか、そこには、時間という資産がまず必要で、その上で、世の中のことを知る必要がある。情報が溢れている時代、とは言われるものの、本当に必要な情報にアプローチできている人はごく限られていると思う。だからこそ、格差はまだ広がっていくんだろうな、と思う。情報が溢れている時代だからこそ。大切なものが見えづらくなっている。

そこで、選択肢を多く持って、トライアンドエラーができる環境に自らを置く。

その試行錯誤の繰り返しの中で、自分自身を見つめて、自分の好きなことを見つけていく。人生の初期段階(状況によっては、いつまででも初期段階だと思っている)に、自分の好きはコレだ!と決めつける必要はなく、例え決めても、その選択が変わってくる可能性は十二分にある、ということを認識しておく必要がある。

自分のことは、自分が一番知っている。当たり前だ。

ただ、前提条件としての、自分を形作っている情報は果たして正しいか、そして必要な情報量は揃っているか、常に自問自答したい。

もちろん、そんなの、全て揃っていることなんて、アリエナイ。だから、あっち行ったりこっち行ったりして、自分自身をマネジメントしていくしかない。

でも、こういう認識すら持てていなければ、本当に自分のことを深く知ることはできないし、どこかで作られたモデルに自分を当てはめるだけの人生になってしまう、そんな気がする。